世界は、善良だった。
政府は、人々を救っていた。
景気が悪くなれば、企業を救った。
企業が潰れそうになれば、融資を与えた。
失業者が増えれば、雇用を支援した。
物価が上がれば、補助金を出した。
銀行が危なくなれば、公的資金を入れた。
農家が苦しめば、買い支えた。
住宅価格が下がれば、住宅市場を支援した。
誰かが困れば、政府が助けた。
誰もが言った。
「素晴らしい政府だ」
朕だけが言った。
「気持ち悪い」
ある日、世界的な景気後退が始まった。
株価が下がった。
企業が倒産した。
失業者が増えた。
政府は緊急会議を開いた。
「景気を支えなければならない」
財務大臣が言った。
「企業を支援しましょう」
中央銀行総裁が言った。
「金融市場を安定させましょう」
社会政策担当者が言った。
「失業者を支援しましょう」
朕は言った。
「全部やめろ」
会議室が静まり返った。
「……何を?」
「全部だ」
「企業支援を?」
「やめろ」
「失業者支援を?」
「やめろ」
「金融市場への介入を?」
「やめろ」
「生活支援を?」
「やめろ」
「では、困っている人々はどうするのです?」
朕は答えた。
「知らん」
政府は朕に反対した。
「それでは大量の失業者が出ます」
「出るだろう」
「企業が大量に倒産します」
「倒産するだろう」
「銀行も破綻します」
「破綻するだろう」
「住宅価格も暴落します」
「暴落するだろう」
「国民が貧しくなります」
「そうだろう」
「それでも何もしないのですか?」
朕は答えた。
「何もしない」
「なぜです?」
「それが失敗というものだからだ」
政府は、それでも救済しようとした。
しかし朕はすべてを拒否した。
「この会社を救ってください」
「嫌だ」
「この銀行を救ってください」
「嫌だ」
「この産業を守ってください」
「嫌だ」
「この地域だけでも支援してください」
「嫌だ」
「この人たちだけでも救ってください」
「嫌だ」
「なぜですか!」
朕は言った。
「誰を救うべきかを決める権利を、朕は持っていない」
「しかし、人々が苦しんでいます!」
「知っている」
「ではなぜ!」
「苦しみまで政府の仕事にしたら、政府は経済そのものになる」
誰も答えられなかった。
世界は壊れた。
銀行が消えた。
巨大企業が消えた。
工場が閉鎖された。
住宅価格が半分になった。
株価は八割下落した。
失業率は史上最高になった。
人々は朕を憎んだ。
新聞は朕を、
「世界最悪の為政者」
と呼んだ。
朕は新聞を読んで笑った。
「まだ甘いな」
「何がです?」
「まだ朕を悪いと言っている」
「悪くないと?」
「悪いに決まっている」
十年が経った。
世界には空き工場が大量に残っていた。
誰も使わない住宅。
誰も買わない土地。
誰も返せない借金。
誰も必要としない企業。
しかし、価格が下がった。
徹底的に下がった。
土地が安くなった。
工場が安くなった。
設備が安くなった。
人材が余った。
資本も余った。
そして、誰かがそれを買い始めた。
倒産した工場を、若者が買った。
破綻した銀行の設備を、新しい会社が買った。
誰も住まなくなった土地に、新しい工場が建った。
失業した技術者たちが会社を作った。
かつての巨大企業が持っていた技術を、別の企業が引き継いだ。
経済は、ゆっくりと動き始めた。
二十年が経った。
世界の企業ランキングは、ほとんど入れ替わっていた。
かつて世界を支配していた企業は消えた。
代わりに、無名だった企業が世界を支配していた。
誰もが気づいた。
あの大恐慌は、
世界経済を壊したのではなかった。
古い経済を壊したのだった。
そして、新しい経済がその跡地に生まれた。
三十年が経った。
世界は、史上最高の生産量を記録した。
失業率は過去最低になった。
賃金も上がった。
物価も安定した。
新しい企業が次々と生まれた。
政府はようやく気づいた。
あのとき救済しなかった企業。
あのとき救済しなかった銀行。
あのとき救済しなかった産業。
あのとき救済しなかった人々。
そのすべてが、
新しい経済を作る材料になっていた。
歴史学者たちは研究を始めた。
なぜ世界は回復したのか。
最初は、
「技術革新のおかげだ」
と言われた。
次に、
「人口構造の変化だ」
と言われた。
「教育制度だ」
「国際貿易だ」
「金融改革だ」
様々な説が出た。
しかし、ある歴史学者が古い政府記録を発見した。
そこには、朕の言葉が残っていた。
「何もするな」
歴史学者は震えた。
そして論文を書いた。
タイトルは、
『朕が世界を救った』
だった。
その論文は世界中で批判された。
「朕は世界を救っていない」
「大量の失業者を生んだ」
「無数の企業を破綻させた」
「人々を見捨てた」
「政府として最低だった」
批判は正しかった。
朕は誰も救わなかった。
誰かが困っても助けなかった。
誰かが破産しても助けなかった。
誰かが失業しても助けなかった。
誰かが家を失っても助けなかった。
朕は何もしなかった。
そして、百年が経った。
世界には、朕の名前を知らない人間が大勢いた。
彼らは普通に働き、
普通に商売をし、
普通に失敗し、
普通に成功していた。
政府は小さかった。
企業は自由だった。
価格は動いた。
倒産は日常だった。
新しい会社も毎日のように生まれた。
誰も、世界を救おうとはしなかった。
それでも世界は続いていた。
ある学生が歴史の授業で手を挙げた。
「先生」
「なんですか?」
「朕は、なぜ世界を救ったのですか?」
教師は少し考えた。
「救おうとはしていなかったんだよ」
「では、なぜ?」
教師は答えた。
「世界を救おうとすることを、やめたからだ」
学生は理解できなかった。
「それで世界が救われたんですか?」
「そうだ」
「そんなことがあるんですか?」
教師は笑った。
「あるんだ」
その頃、天国にいた朕は、その授業を見ていた。
「くだらん」
隣の者が聞いた。
「何がです?」
「朕は世界など救っておらん」
「では何をしたのです?」
朕は答えた。
「何もしなかった」
「それだけですか?」
「それだけだ」
少し沈黙してから、朕は新聞を開いた。
一面には、新しい文明の到来を告げる記事が載っていた。
朕はそれを読み、
満足そうに笑った。
「よし」
「何がです?」
「人類がまた失敗できる」
そしてコーヒーを飲んだ。
世界は今日も、
誰にも救われることなく、続いていた。

コメント